今回は長いです。
2回に分けようかとも思ったんですが、週末だし一気に放出です(笑
信長の野望・創造 with パワーアップキット(PC)
徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍が
ついに、関ヶ原で雌雄を決します。
濃い霧の中、両陣営の睨み合いが続きます。
そんな緊張状態が続く中、先発隊を任されていた福島正則隊に割って入る男が居ました。
徳川四天王、戦国屈指の精鋭部隊である井伊の赤備え率いる井伊直政でした。
徳川家康の四男で井伊直政の娘婿である松平忠吉の初陣の物見をする
との事で、福島正則も渋々通過を許可しますが……。
部下に攻撃の準備をさせる直政。
そしてついに井伊直政の抜け駆けによって戦闘が開始。
迎え撃つのは中国地方の大名、宇喜多秀家。
福島正則も井伊直政隊に続きます。
これで、東軍、西軍の諸隊が動き、天下分け目の戦が開始されました。
まずは、福島正則、井伊直政隊と宇喜多秀家隊が激突。
一進一退の攻防が繰り広げられます。
そして、加藤嘉明、細川忠興、黒田長政隊が、小西行長隊と戦闘を開始。
こちらも一進一退の状況となります。
しかし、石田三成本陣前を守っていた勇将 島左近が
黒田長政隊の銃撃を受けてしまい本陣に担ぎ込まれる事態となります。
三成にとって、一番頼りにしていた島左近が、開始早々戦闘不能になってしまい、
本陣は三成自らの隊で持ちこたえなければならなくなります。
戦況は一進一退の状態。
そんな中、家康は寝返りの密約を交わしていた小早川秀秋が
動かない事に苛立ちます。
そこで、家康は一つの賭けに出ます。
小早川秀秋隊に向けて鉄砲射撃を開始。
小早川秀秋は、叔父の豊臣秀吉の養子となり、その後小早川家に
養子に出された、いわば豊臣の一門衆です。
ですが、大の石田三成嫌いな人でもありました。
これに慌てた秀秋は東軍への寝返りを宣言。
1万6千の小早川隊は、近くにいた大谷吉継隊に攻撃を開始します。
しかし、大谷吉継は事前から秀秋の寝返りを予測していました。
最初から、小早川隊が寝返った場合に抑えられる位置に陣を構えていたのです。
ところが、小早川隊の抑えと思っていた脇坂安治隊までもが東軍に寝返ってしまいます。
小早川、脇坂安治隊が大谷隊に殺到。
孤軍奮闘するも集中攻撃を受け壊滅。
大谷吉継は自刃して果て、大谷隊は壊滅してしまいます。
宇喜多隊も福島正則、井伊直政隊と一進一退の攻撃を繰り広げていましたが、
側面から小早川隊に強襲され壊滅。
宇喜多秀家は小早川秀秋と刺し違えようとしますが、
家臣の明石全登に説得され苦渋の思いで戦場から退却します。
さらに宇喜多隊の総崩れに巻き込まれた小西隊も壊滅し敗走してしまいます。
こうして石田隊に総攻撃を開始する東軍。
これに対して、開始早々負傷してしまった島左近が意地を見せ奮戦。
細川忠興の咆哮を発動して優位に立とうとしますが
石田三成も先懸之衆を発動し対抗。
一進一退の攻防が繰り広げられます。
しかし数で勝る東軍は本多忠勝の蜻蛉切を発動し、家康本隊で総攻撃を開始。
石田隊を押し返していきます。
そして、ついに島左近も討死し、石田隊は壊滅。
石田三成は敗走しました。
こうした戦いの中、勝敗を度外視し自分の戦いをするために沈黙してた島津隊も
ついに東軍に包囲されます。
そこで、島津隊は後方に退却するのではなく、敵中突破退却戦を開始します。
世に言う「島津の退き口」の開始です。
正面に展開していた福島隊の中央に突撃する島津隊。
西軍諸隊がことごとく壊滅・逃亡する中でのまさかの反撃に虚を衝かれた福島隊は混乱し、
その間に島津隊は強行突破に成功。
更に寝返った小早川隊をも突破し、家康旗本の松平、井伊、本多の3隊に
迎撃されますがこれも突破します。
この時点で島津隊と家康本陣までの間に遮るものは無くなります。
島津隊の勢いを見た家康は、迎え撃つべく床几から立ち刀を抜いたと言われています。
しかし島津隊は直前で転進、家康本陣をかすめるように通り抜け撤退していきました。
執拗に追撃する徳川軍。
島津隊は捨て奸(すてまがり)と呼ばれる島津戦法を使い戦線離脱を試みます。
捨て奸とは、足止め隊を置き捨て本隊を逃がすという、いわばトカゲの尻尾きり戦法であり、
足止め隊が生還する可能性はほぼありません。
決死の覚悟を決め、死兵と化した島津豊久の抵抗は凄まじく、
追撃した井伊直政が狙撃されて負傷し後退。
そして島津豊久、阿多盛淳が捨て奸となり玉砕して果てます。
多大な犠牲を出しながらも大阪まで逃げ切った島津義弘は、
人質となっていた妻子を救出すると、海路で薩摩へと帰って行きました。
敗走した石田三成、小西行長は、伊吹山中に落ち延びましたが
やがて東軍に捕らえられてしまいます。
宇喜多秀家は大阪に辿り着き薩摩に落ち延びますが、三年後に出頭し島流しの刑になります。
この時、前田家の姫で秀家の妻であった豪姫との別れは戦国の悲恋物語として有名です。
その後、八丈島に流刑となった秀家は、西軍武将では唯一、84歳の天寿を全うします。
キリシタン大名としても有名な小西行長は、
僧侶による経文を拒否し、市中引き回しの上、打首となります。
石田三成は処刑直前に喉が乾いたので警護の者に水を所望した際、
「水は無いが、柿がある。代わりにそれを食せ」と言われたのに対し、
三成は「柿は体を冷やすのでいらない」と答えました。
これを聞いた警護の者は「これから首を切られる者が、体の心配をするとは」と
笑われますが、三成は「大義を思う者というのは、たとえ首を打たれようとしても
命を惜しみ、本意を達しようとする、そういうものだ」と言い返し、
泰然としていたと伝えられています。
こうして三成も打首となり、それぞれの野望と覚悟で挑んだ関ヶ原の戦いは
ここに終わりを告げました。
という訳で、天下分け目の戦いを家康が制し、豊臣家は縮小。
豊臣家は普通の大名家の一つとなり、家康が再び天下を統一しました。
そして関ヶ原の戦いから3年後、家康は征夷大将軍に任命され江戸幕府を開きます。
日本は江戸時代に突入し、泰平の世へと移っていくのでした。
ちなみにこの後、豊臣家と徳川家が戦い、真田幸村と伊達政宗がLet's Party!!しちゃう
大阪の陣ってのがあるんですが、信長の野望創造には収録されていません。
尚、私は戦国BASARAはやった事はありません(笑
ってな訳けで今回で信長の野望創造は終了。
まだやってないシナリオもあるんですが、桶狭間より前の物なので
もういいかなって事で、気が向いた時にやります。
来週から何やろうかなぁ……。
ごちそうさまでした
2回に分けようかとも思ったんですが、週末だし一気に放出です(笑
信長の野望・創造 with パワーアップキット(PC)
徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍が
ついに、関ヶ原で雌雄を決します。
濃い霧の中、両陣営の睨み合いが続きます。
そんな緊張状態が続く中、先発隊を任されていた福島正則隊に割って入る男が居ました。
徳川四天王、戦国屈指の精鋭部隊である井伊の赤備え率いる井伊直政でした。
徳川家康の四男で井伊直政の娘婿である松平忠吉の初陣の物見をする
との事で、福島正則も渋々通過を許可しますが……。
部下に攻撃の準備をさせる直政。
そしてついに井伊直政の抜け駆けによって戦闘が開始。
迎え撃つのは中国地方の大名、宇喜多秀家。
福島正則も井伊直政隊に続きます。
これで、東軍、西軍の諸隊が動き、天下分け目の戦が開始されました。
まずは、福島正則、井伊直政隊と宇喜多秀家隊が激突。
一進一退の攻防が繰り広げられます。
そして、加藤嘉明、細川忠興、黒田長政隊が、小西行長隊と戦闘を開始。
こちらも一進一退の状況となります。
しかし、石田三成本陣前を守っていた勇将 島左近が
黒田長政隊の銃撃を受けてしまい本陣に担ぎ込まれる事態となります。
三成にとって、一番頼りにしていた島左近が、開始早々戦闘不能になってしまい、
本陣は三成自らの隊で持ちこたえなければならなくなります。
戦況は一進一退の状態。
そんな中、家康は寝返りの密約を交わしていた小早川秀秋が
動かない事に苛立ちます。
そこで、家康は一つの賭けに出ます。
小早川秀秋隊に向けて鉄砲射撃を開始。
小早川秀秋は、叔父の豊臣秀吉の養子となり、その後小早川家に
養子に出された、いわば豊臣の一門衆です。
ですが、大の石田三成嫌いな人でもありました。
これに慌てた秀秋は東軍への寝返りを宣言。
1万6千の小早川隊は、近くにいた大谷吉継隊に攻撃を開始します。
しかし、大谷吉継は事前から秀秋の寝返りを予測していました。
最初から、小早川隊が寝返った場合に抑えられる位置に陣を構えていたのです。
ところが、小早川隊の抑えと思っていた脇坂安治隊までもが東軍に寝返ってしまいます。
小早川、脇坂安治隊が大谷隊に殺到。
孤軍奮闘するも集中攻撃を受け壊滅。
大谷吉継は自刃して果て、大谷隊は壊滅してしまいます。
宇喜多隊も福島正則、井伊直政隊と一進一退の攻撃を繰り広げていましたが、
側面から小早川隊に強襲され壊滅。
宇喜多秀家は小早川秀秋と刺し違えようとしますが、
家臣の明石全登に説得され苦渋の思いで戦場から退却します。
さらに宇喜多隊の総崩れに巻き込まれた小西隊も壊滅し敗走してしまいます。
こうして石田隊に総攻撃を開始する東軍。
これに対して、開始早々負傷してしまった島左近が意地を見せ奮戦。
細川忠興の咆哮を発動して優位に立とうとしますが
石田三成も先懸之衆を発動し対抗。
一進一退の攻防が繰り広げられます。
しかし数で勝る東軍は本多忠勝の蜻蛉切を発動し、家康本隊で総攻撃を開始。
石田隊を押し返していきます。
そして、ついに島左近も討死し、石田隊は壊滅。
石田三成は敗走しました。
こうした戦いの中、勝敗を度外視し自分の戦いをするために沈黙してた島津隊も
ついに東軍に包囲されます。
そこで、島津隊は後方に退却するのではなく、敵中突破退却戦を開始します。
世に言う「島津の退き口」の開始です。
正面に展開していた福島隊の中央に突撃する島津隊。
西軍諸隊がことごとく壊滅・逃亡する中でのまさかの反撃に虚を衝かれた福島隊は混乱し、
その間に島津隊は強行突破に成功。
更に寝返った小早川隊をも突破し、家康旗本の松平、井伊、本多の3隊に
迎撃されますがこれも突破します。
この時点で島津隊と家康本陣までの間に遮るものは無くなります。
島津隊の勢いを見た家康は、迎え撃つべく床几から立ち刀を抜いたと言われています。
しかし島津隊は直前で転進、家康本陣をかすめるように通り抜け撤退していきました。
執拗に追撃する徳川軍。
島津隊は捨て奸(すてまがり)と呼ばれる島津戦法を使い戦線離脱を試みます。
捨て奸とは、足止め隊を置き捨て本隊を逃がすという、いわばトカゲの尻尾きり戦法であり、
足止め隊が生還する可能性はほぼありません。
決死の覚悟を決め、死兵と化した島津豊久の抵抗は凄まじく、
追撃した井伊直政が狙撃されて負傷し後退。
そして島津豊久、阿多盛淳が捨て奸となり玉砕して果てます。
多大な犠牲を出しながらも大阪まで逃げ切った島津義弘は、
人質となっていた妻子を救出すると、海路で薩摩へと帰って行きました。
敗走した石田三成、小西行長は、伊吹山中に落ち延びましたが
やがて東軍に捕らえられてしまいます。
宇喜多秀家は大阪に辿り着き薩摩に落ち延びますが、三年後に出頭し島流しの刑になります。
この時、前田家の姫で秀家の妻であった豪姫との別れは戦国の悲恋物語として有名です。
その後、八丈島に流刑となった秀家は、西軍武将では唯一、84歳の天寿を全うします。
キリシタン大名としても有名な小西行長は、
僧侶による経文を拒否し、市中引き回しの上、打首となります。
石田三成は処刑直前に喉が乾いたので警護の者に水を所望した際、
「水は無いが、柿がある。代わりにそれを食せ」と言われたのに対し、
三成は「柿は体を冷やすのでいらない」と答えました。
これを聞いた警護の者は「これから首を切られる者が、体の心配をするとは」と
笑われますが、三成は「大義を思う者というのは、たとえ首を打たれようとしても
命を惜しみ、本意を達しようとする、そういうものだ」と言い返し、
泰然としていたと伝えられています。
こうして三成も打首となり、それぞれの野望と覚悟で挑んだ関ヶ原の戦いは
ここに終わりを告げました。
という訳で、天下分け目の戦いを家康が制し、豊臣家は縮小。
豊臣家は普通の大名家の一つとなり、家康が再び天下を統一しました。
そして関ヶ原の戦いから3年後、家康は征夷大将軍に任命され江戸幕府を開きます。
日本は江戸時代に突入し、泰平の世へと移っていくのでした。
ちなみにこの後、豊臣家と徳川家が戦い、真田幸村と伊達政宗がLet's Party!!しちゃう
大阪の陣ってのがあるんですが、信長の野望創造には収録されていません。
尚、私は戦国BASARAはやった事はありません(笑
ってな訳けで今回で信長の野望創造は終了。
まだやってないシナリオもあるんですが、桶狭間より前の物なので
もういいかなって事で、気が向いた時にやります。
来週から何やろうかなぁ……。
ごちそうさまでした
スポンサードリンク