信長の野望・創造 with パワーアップキット(PC)
前回、秀吉が死去した事でシナリオ的には完了しましたので、
今回からはシナリオ「関が原の戦い」を徳川家で開始します。
シナリオに入る前に、前知識として秀吉死去から関ヶ原までの出来事について解説しておきます。
信長の野望創造としては省略されている部分なので、読み飛ばしながら見てください。
ついに豊臣秀吉により天下統一。
しかし、朝鮮出兵など、まだまだ戦乱の時代は続いていました。
そんな中、豊臣政権内では朝鮮出兵に前線で戦った武断派と呼ばれるグループと
内政・経済・宗教など、戦場以外の分野で活躍していた文治派との間に対立が生じていました。
豊臣秀長などの働きで両派閥の対立の表面化は避けられていましたが
秀長の死、朝鮮出兵の遂行方針や賞罰をめぐる対立により、
両派の溝は深刻なものとなっていきます。
そして1598年、秀吉はこの世を去りました。
遺言により秀吉死後の日本は、豊臣秀頼成人まで
豊臣五大老と豊臣五奉行が運営する事になります。
五大老とは、有力大名五人で構成された権力者の代表です。
豊臣五大老は
関東地方の大名、五大老筆頭 徳川家康
北陸地方の大名 前田利家
中国地方西部の大名 宇喜多秀家
中国地方東部の大名 毛利輝元
東北地方の大名 上杉景勝
九州地方の大名 小早川隆景
五奉行とは、政権の実務を担当してた政治家(奉行人)で
早い話が、豊臣家の上層部です。
豊臣五奉行は、
司法担当 浅野長政
行政担当 石田三成
土木担当 増田長盛
財政担当 長束正家
宗教担当 前田玄以
秀吉死後、徳川家康は太閤蔵入地の解除など太閤蔵入地支配を通じた文治派の
専制・集権体制を解体し、さらに禁止されていた大名同士の婚儀や知行地加増などを
取り仕切る様になり、他の大名との連携を強めていきます。
これに対し、秀吉の親友で槍の又左の異名をとる前田利家が家康を批判。
一時期は利家と家康との間で武力衝突寸前までいきますが、誓書を交換するなどして
対立は避けらます。
五大老No2の実力者であり、多くの武将から慕われ人望があった利家は、
両派閥の仲裁を行い大きなトラブルは発生しないようにしていました。
しかし、1599年3月、仲裁役となっていた利家が死去します。
すると、武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明、
浅野幸長の武将7名が、文治派の筆頭である石田三成を襲撃するという事件が起きます。
しかし、この事を事前に察知していた石田三成は襲撃前に逃走。
暗殺は未遂に終わります。
そして、徳川家康がこの事件の仲裁をする事で、石田三成は責任を取らされ失脚
家康の影響力はさらに大きくなっていきます。
9月、徳川家康は秀頼への挨拶として大阪城に入城。
そこで、前田家の家督を継いだ前田利長と五奉行筆頭の浅野長政が結託し、
徳川家康案策計画を図っていたと発表します。
これにより、浅野長政は失脚。
さらに加賀征伐の号令を発し前田家討伐の準備を開始します。
しかし、利家の正室まつが、自ら家康の人質として出頭し、
徳川家に従う姿勢を見せた為に、回避されました。
この一件により五大老・五奉行の制度は完全に瓦解。
五大老No2の前田家を従属させ、五奉行の弱体化に成功した家康は
大阪から直接政務を取り仕切り、大名への加増や転封を実施していきます。
ここからシナリオ「関ヶ原の戦い」
政権をほぼ手中に収めた家康は、上杉景勝に上洛を勧告しますが、景勝は従いません。
謀反の疑いがあるとして、早期の上洛を勧告しますが、これに対し
家臣の直江兼続は家康に対して書状を送ります。
内容は、
「我らに関するつまらぬ噂が内府様(家康の事)のお耳に届いているようですが
すべて愚か者の妄言にすぎませぬ。
謙信公より受け継ぎし我ら上杉の武門の誇りにかけて妄言の釈明のために
上洛するような真似はできませぬ。
内府様のように豊臣をないがしろにして窺おうなどというつもりは毛頭ございませぬ。
然れども、信じていただけぬというのであれば是非に及びませぬ。
もはや我らの間に言葉はいらぬでしょう」
という物で、すでに天下を手中に収めつつあった家康に対して、
堂々と挑戦状を叩きつけます。
有名な直江状です。
これに対し家康は、上杉家の謀反の疑いは間違いないとの結論に達します。
家康は上杉討伐の兵を上げ、会津征伐に向けて進軍を開始するのでした。
ってな訳けで続きは次回。
ごちそうさまでした
前回、秀吉が死去した事でシナリオ的には完了しましたので、
今回からはシナリオ「関が原の戦い」を徳川家で開始します。
シナリオに入る前に、前知識として秀吉死去から関ヶ原までの出来事について解説しておきます。
信長の野望創造としては省略されている部分なので、読み飛ばしながら見てください。
ついに豊臣秀吉により天下統一。
しかし、朝鮮出兵など、まだまだ戦乱の時代は続いていました。
そんな中、豊臣政権内では朝鮮出兵に前線で戦った武断派と呼ばれるグループと
内政・経済・宗教など、戦場以外の分野で活躍していた文治派との間に対立が生じていました。
豊臣秀長などの働きで両派閥の対立の表面化は避けられていましたが
秀長の死、朝鮮出兵の遂行方針や賞罰をめぐる対立により、
両派の溝は深刻なものとなっていきます。
そして1598年、秀吉はこの世を去りました。
遺言により秀吉死後の日本は、豊臣秀頼成人まで
豊臣五大老と豊臣五奉行が運営する事になります。
五大老とは、有力大名五人で構成された権力者の代表です。
豊臣五大老は
関東地方の大名、五大老筆頭 徳川家康
北陸地方の大名 前田利家
中国地方西部の大名 宇喜多秀家
中国地方東部の大名 毛利輝元
東北地方の大名 上杉景勝
九州地方の大名 小早川隆景
五奉行とは、政権の実務を担当してた政治家(奉行人)で
早い話が、豊臣家の上層部です。
豊臣五奉行は、
司法担当 浅野長政
行政担当 石田三成
土木担当 増田長盛
財政担当 長束正家
宗教担当 前田玄以
秀吉死後、徳川家康は太閤蔵入地の解除など太閤蔵入地支配を通じた文治派の
専制・集権体制を解体し、さらに禁止されていた大名同士の婚儀や知行地加増などを
取り仕切る様になり、他の大名との連携を強めていきます。
これに対し、秀吉の親友で槍の又左の異名をとる前田利家が家康を批判。
一時期は利家と家康との間で武力衝突寸前までいきますが、誓書を交換するなどして
対立は避けらます。
五大老No2の実力者であり、多くの武将から慕われ人望があった利家は、
両派閥の仲裁を行い大きなトラブルは発生しないようにしていました。
しかし、1599年3月、仲裁役となっていた利家が死去します。
すると、武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明、
浅野幸長の武将7名が、文治派の筆頭である石田三成を襲撃するという事件が起きます。
しかし、この事を事前に察知していた石田三成は襲撃前に逃走。
暗殺は未遂に終わります。
そして、徳川家康がこの事件の仲裁をする事で、石田三成は責任を取らされ失脚
家康の影響力はさらに大きくなっていきます。
9月、徳川家康は秀頼への挨拶として大阪城に入城。
そこで、前田家の家督を継いだ前田利長と五奉行筆頭の浅野長政が結託し、
徳川家康案策計画を図っていたと発表します。
これにより、浅野長政は失脚。
さらに加賀征伐の号令を発し前田家討伐の準備を開始します。
しかし、利家の正室まつが、自ら家康の人質として出頭し、
徳川家に従う姿勢を見せた為に、回避されました。
この一件により五大老・五奉行の制度は完全に瓦解。
五大老No2の前田家を従属させ、五奉行の弱体化に成功した家康は
大阪から直接政務を取り仕切り、大名への加増や転封を実施していきます。
ここからシナリオ「関ヶ原の戦い」
政権をほぼ手中に収めた家康は、上杉景勝に上洛を勧告しますが、景勝は従いません。
謀反の疑いがあるとして、早期の上洛を勧告しますが、これに対し
家臣の直江兼続は家康に対して書状を送ります。
内容は、
「我らに関するつまらぬ噂が内府様(家康の事)のお耳に届いているようですが
すべて愚か者の妄言にすぎませぬ。
謙信公より受け継ぎし我ら上杉の武門の誇りにかけて妄言の釈明のために
上洛するような真似はできませぬ。
内府様のように豊臣をないがしろにして窺おうなどというつもりは毛頭ございませぬ。
然れども、信じていただけぬというのであれば是非に及びませぬ。
もはや我らの間に言葉はいらぬでしょう」
という物で、すでに天下を手中に収めつつあった家康に対して、
堂々と挑戦状を叩きつけます。
有名な直江状です。
これに対し家康は、上杉家の謀反の疑いは間違いないとの結論に達します。
家康は上杉討伐の兵を上げ、会津征伐に向けて進軍を開始するのでした。
ってな訳けで続きは次回。
ごちそうさまでした
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