信長の野望・創造 with パワーアップキット(PC)
小田原征伐が完了し、ほぼ天下統一を完了した秀吉。
史実とは違ってまだ伊達家が抵抗してますが、それも時間の問題です。
相模の鶴ヶ岡八幡宮に参拝する秀吉。
小身から天下人になった源頼朝に自分を重ね、親近感を覚えていた様です。
天下統一を果たし(東北がまだだけどw)全てを手に入れた秀吉。
しかし、行く末は決して明るいものではありませんでした。
元々、平民出の秀吉にとって、譜代の家臣という物がなく、
一門衆といえる者もわずかにしか居ませんでした。
そんな中、弟の秀長は秀吉の片腕として、内外の政務および軍事の両面で活躍し、
天下統一に大きく貢献した人物でした。
秀吉は秀長を重用し、最終的に秀長は大和・紀伊・和泉を統治する
約110万石の大大名となります。
また官位も従二位権大納言に叙任され、大和大納言と尊称されていました。
そして、秀長は秀吉に異を唱え制御できる唯一の人物でもありました。
豊臣政権での徳川家康という最大の爆弾を抱えた中での政権運営の調整役であり、
政権の安定には欠かせない人でした。
そんな兄を支え続けた秀長が病に倒れ急死してしまいます。
享年52才。
秀長の死に大きな衝撃を受けたのは秀吉だけではありませんでした。
茶聖、千利休にとって秀長は、最大の理解者であり庇護者でもありました。
秀吉は突然、利休に謀反の噂があるとして堺に蟄居を命じます。
この蟄居(謹慎処分)は執行猶予で、この間に利休が弁明しない限り
死罪は免れない物でした。
古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走しますが助命は適いません。
京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられます。
淀殿との間に出来た唯一の実子、鶴松を病で失った秀吉は、
秀吉の姉の長男である、甥の秀次に関白の座を譲ります。
そして秀吉は前関白を意味する太閤と呼ばれる様になります。
子供が出来なかった秀吉にとって、後継者候補である秀長、鶴松と
相次いで失った事で、やむを得ない処置でした。
しかし、淀殿が第二子、秀頼を出産します。
これにより、ねねの兄である木下家定の五男で後継者の居ない秀吉の有事の際の
次期関白候補になっていた、養子の木下秀秋の立場が微妙な物となっていきます。
秀頼可愛さに、秀吉は相続争いの火種になりそうな人物をことごとく遠ざけ、
秀秋も養子に出される事になります。
当初は毛利家の養子に出される予定でしたが、黒田官兵衛すら称賛する
小早川隆景の計らいにより、小早川家の養子となり、小早川秀秋と名を変えました。
この秀秋が、後に歴史の転換点に立ち会い、小早川家に大きな災いを
もたらす事を、この時誰も知る由もありませんでした。
さらに、名目上の最高権力者である関白・豊臣秀次にすらその影は忍び寄っていました。
秀吉にとっては、まさかの実子誕生。
しかし、秀吉が死ねば天下は実子である秀頼ではなく、甥の秀次の手に渡る事になります。
そして、秀吉は突然、秀次に謀反の疑いがあるとして、切腹を命じます。
この秀次事件は現在でも色々な説があり、はっきりとした事は解っていません。
殺生関白と呼ばれる程の乱行があったとも言われていたりもしますが……。
そもそも本当に謀反を起こしたのであれば切腹は許されず、
斬首や磔などもっと重い刑罰が科されることが常識です。
結果的には、秀次は切腹にとどまらず、打首となり三条河原で晒され、
秀次の一族郎党も処断されました。
縁の下の力持ちで、良きブレーキ役でもあった秀長の死は豊臣政権にとって
大きな痛手となり、秀長の死去から1か月後には千利休が切腹。
朝鮮出兵を始めて諸大名を疲弊させ、さらに後継者に迎えていた秀次一族を
虐殺するなど豊臣政権は秀長の死で秀吉により破壊されていくのでした。
もし秀長が長命を保っていたならば・・・・・・。
秀吉はこの年、醍醐寺で花見を開催します。
各地から700本の桜を集めて境内に植えさせ、僅かな身内と女中ばかりを
千人以上集めて、盛大な花見を催しました。
醍醐の花見は北野大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の催し物として知られています。
花見に招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の他には唯一前田利家だけでした。
それから5ヶ月後。
病床についていた秀吉は、秀頼の事を諸大名に頼み、
遺言書を残した後、その生涯を終えました。
辞世の句は、とても有名です。
後継者は豊臣秀頼となりました。
そして、残された火種が新たな戦いへとくすぶり始めるのでした。
ってな訳けで続きは次回。
ごちそうさまでした
小田原征伐が完了し、ほぼ天下統一を完了した秀吉。
史実とは違ってまだ伊達家が抵抗してますが、それも時間の問題です。
相模の鶴ヶ岡八幡宮に参拝する秀吉。
小身から天下人になった源頼朝に自分を重ね、親近感を覚えていた様です。
天下統一を果たし(東北がまだだけどw)全てを手に入れた秀吉。
しかし、行く末は決して明るいものではありませんでした。
元々、平民出の秀吉にとって、譜代の家臣という物がなく、
一門衆といえる者もわずかにしか居ませんでした。
そんな中、弟の秀長は秀吉の片腕として、内外の政務および軍事の両面で活躍し、
天下統一に大きく貢献した人物でした。
秀吉は秀長を重用し、最終的に秀長は大和・紀伊・和泉を統治する
約110万石の大大名となります。
また官位も従二位権大納言に叙任され、大和大納言と尊称されていました。
そして、秀長は秀吉に異を唱え制御できる唯一の人物でもありました。
豊臣政権での徳川家康という最大の爆弾を抱えた中での政権運営の調整役であり、
政権の安定には欠かせない人でした。
そんな兄を支え続けた秀長が病に倒れ急死してしまいます。
享年52才。
秀長の死に大きな衝撃を受けたのは秀吉だけではありませんでした。
茶聖、千利休にとって秀長は、最大の理解者であり庇護者でもありました。
秀吉は突然、利休に謀反の噂があるとして堺に蟄居を命じます。
この蟄居(謹慎処分)は執行猶予で、この間に利休が弁明しない限り
死罪は免れない物でした。
古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走しますが助命は適いません。
京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられます。
淀殿との間に出来た唯一の実子、鶴松を病で失った秀吉は、
秀吉の姉の長男である、甥の秀次に関白の座を譲ります。
そして秀吉は前関白を意味する太閤と呼ばれる様になります。
子供が出来なかった秀吉にとって、後継者候補である秀長、鶴松と
相次いで失った事で、やむを得ない処置でした。
しかし、淀殿が第二子、秀頼を出産します。
これにより、ねねの兄である木下家定の五男で後継者の居ない秀吉の有事の際の
次期関白候補になっていた、養子の木下秀秋の立場が微妙な物となっていきます。
秀頼可愛さに、秀吉は相続争いの火種になりそうな人物をことごとく遠ざけ、
秀秋も養子に出される事になります。
当初は毛利家の養子に出される予定でしたが、黒田官兵衛すら称賛する
小早川隆景の計らいにより、小早川家の養子となり、小早川秀秋と名を変えました。
この秀秋が、後に歴史の転換点に立ち会い、小早川家に大きな災いを
もたらす事を、この時誰も知る由もありませんでした。
さらに、名目上の最高権力者である関白・豊臣秀次にすらその影は忍び寄っていました。
秀吉にとっては、まさかの実子誕生。
しかし、秀吉が死ねば天下は実子である秀頼ではなく、甥の秀次の手に渡る事になります。
そして、秀吉は突然、秀次に謀反の疑いがあるとして、切腹を命じます。
この秀次事件は現在でも色々な説があり、はっきりとした事は解っていません。
殺生関白と呼ばれる程の乱行があったとも言われていたりもしますが……。
そもそも本当に謀反を起こしたのであれば切腹は許されず、
斬首や磔などもっと重い刑罰が科されることが常識です。
結果的には、秀次は切腹にとどまらず、打首となり三条河原で晒され、
秀次の一族郎党も処断されました。
縁の下の力持ちで、良きブレーキ役でもあった秀長の死は豊臣政権にとって
大きな痛手となり、秀長の死去から1か月後には千利休が切腹。
朝鮮出兵を始めて諸大名を疲弊させ、さらに後継者に迎えていた秀次一族を
虐殺するなど豊臣政権は秀長の死で秀吉により破壊されていくのでした。
もし秀長が長命を保っていたならば・・・・・・。
秀吉はこの年、醍醐寺で花見を開催します。
各地から700本の桜を集めて境内に植えさせ、僅かな身内と女中ばかりを
千人以上集めて、盛大な花見を催しました。
醍醐の花見は北野大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の催し物として知られています。
花見に招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の他には唯一前田利家だけでした。
それから5ヶ月後。
病床についていた秀吉は、秀頼の事を諸大名に頼み、
遺言書を残した後、その生涯を終えました。
辞世の句は、とても有名です。
後継者は豊臣秀頼となりました。
そして、残された火種が新たな戦いへとくすぶり始めるのでした。
ってな訳けで続きは次回。
ごちそうさまでした
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