信長の野望・創造 with パワーアップキット(PC)

前回、九州征伐を完了した秀吉。

豊臣秀長(秀吉の弟)は、島津家久に上洛の打診をします。
しかし、家久は「我が才は、島津の物」と言って拒否するのでした。
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秀長は島津家の力を恐れ、強さの源である兄弟の絆を壊す事を計画します。
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それから数日後、体調が優れなかった家久は病死してしまいました。
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島津兄弟の絆を壊すための豊臣側の策略とも言われていますが、
豊臣・島津双方にとって家久を毒殺する意義が少ないことや、
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秀長が義弘に宛てた書状に家久が病気であることが記されていることから、
一般には病死とされています。
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島津家の力を恐れた豊臣家は、義弘を党首として扱うなどして
島津家の分裂を狙っていきます。
そして義久と義弘の仲は徐々に険悪になり、歳久が独自の抵抗を続けるなど、
その策は徐々に島津家を蝕んでいくのでした。

さて、秀吉の天下統一に対抗する勢力は、関東の北条家と東北の大名たちとなりました。
これに対し秀吉は戦による消耗を避けるべく、示威行為により降伏を促そうと画策します。
そこで考えたのが、大茶会を開く事。
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茶聖とも称せられる千利休に相談する秀吉。
これを受け、利休は北野大茶湯を開催する事を進言します。
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そして、へうげもの(ひょうげものと読む)で有名になった
古田織部に茶器の収集を依頼する秀吉。
数奇(すき)者として有名な織部は喜んで引き受けます。
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千利休・津田宗及・今井宗久という当代きっての茶人3名を茶頭として迎え、
京都だけではなく大坂・堺・奈良からも大勢の参加者が駆けつけ、
総勢1000人にも達した北野大茶湯は大成功となります。
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しかし翌日、肥後国人一揆が発生したという知らせが入り茶会は中止。
関東の北条家も不穏な動きを見せているとの事。
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天下人となった秀吉は惣無事令を敷いていました。
惣無事令(そうぶじれい)とは、大名間の私闘を禁じた法令。
しかし、北条家はこれを無視し、真田家の領土に兵を出す有り様でした。
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秀吉は、北条家を惣無事令違反とみなし、討伐を決意します。

クソ真面目な三成に、やきもきしながらも可愛がる秀吉。
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そして、いよいよ小田原征伐へ向けて動きだすのでした。

ってな訳で続きは次回。

ごちそうさまでした

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