信長の野望・創造 with パワーアップキット(PC)
織田家を完全に掌握した秀吉。
家康も従え、残す敵対勢力は九州の島津家、東北の伊達家、関東の北条家となりました。
さて、その頃の九州地方。
今山の戦いで勝利した龍造寺家は、大友家を退け
肥前一国を掌握する大名家へ躍進。
詳しくはその7
そして耳川の戦いの戦いで大友家を退けた島津家が台頭。
詳しくはその6
九州は三つ巴の三国志時代に突入していました。
耳川の戦いで敗れた大友家は、勢力を衰退させてしまいます。
その隙に龍造寺家は勢力を拡大。
北九州の最大勢力は龍造寺家に取って代わられました。
しかし、調子にのった龍造寺隆信は龍造寺家の軍師鍋島直茂の忠告も聞かず、
酒池肉林で遊び呆け、自分に敵対する者は一族や兵士もろとも皆殺しにし、
反対意見を出す者を粛清し始めます。
これに反発し龍造寺家から離反したのが長崎の島原半島を拠点とする有馬家でした。
龍造寺隆信は有馬家離反の報を受け、自ら総大将を務め、島原半島に向けて
進軍を開始、その数3万。
有馬家はすぐさま迎撃体制を取りますが、兵力は少なくまともには戦えません。
そこで島津家に救援を要請。
しかし、島津家は大友家と対陣中であり、多くの兵を救援に向かわせる事が出来ません。
そこで島津家久を総大将とした3千の精鋭部隊を送ります。
島津家久は援軍が期待出来ない以上、籠城戦をしても勝ち目が無いと悟り、
有利な地形に誘い込み、龍造寺本隊を叩く作戦を練ります。
対して龍造寺軍は、島津の援軍が少ない事を知り一気に敵の城を攻略する作戦に出ます。
そして島津軍の先鋒と対峙、大軍を率いていた龍造寺軍はそのまま蹴散らし、
島津の先鋒隊は敗走してしまいます。
すかさず一斉攻撃を開始する龍造寺軍。
しかしこれは、敵をおびき寄せ包囲する島津家必殺の戦法 釣り野伏せでした。
龍造寺軍は、沖田畷(おきたなわて)という場所に誘い込まれてしまいます。
畷とは、田んぼのあぜ道の事で、狭く細い道です。
ここに潜んでいた島津家久の鉄砲隊が狭い道で伸びきった龍造寺軍に攻撃を開始。
龍造寺軍は移動の邪魔になる楯や竹束を捨て無防備の状態だった為に先鋒隊は壊滅。
しかも龍造寺軍は大部隊だった為に事情が分からない後続部隊に押され
撤退できずに前進して鉄砲の餌食になり、そのまま押し出してきた
後続部隊も同じ運命を辿ります。
ようやく前線の事情を悟った後続の一部が左右に迂回しようとしますが、
田んぼに足を取られて機動力を失い、たちまち島津軍の餌食となりました。
その頃、龍造寺家軍師、鍋島直茂は島津軍の新納忠元と山手で激突。
鍋島直茂の名采配で新納隊を押していましたが、この様な状況の為に、
逆に本隊の救援に向かえませんでした。
こうして龍造寺隆信も戦乱の中、ついに討ち取られてしまいます。
ちなみに合戦の中で、首を取られた大名は、今川義元と龍造寺隆信くらいだそうです(汗
龍造寺隆信討死の報を聞き、鍋島直茂は戦線より離脱。
しかし、この戦いで北九州最大の勢力だった龍造寺家は
主力武将の殆どが討死し衰退。
大友、龍造寺双方を倒した島津家は、九州統一に向けて動き出します。
そして、もはや自力では島津に対抗出来ない事を悟った大友宗麟は
中央を制し、天下人になろうとしている秀吉に救援を要請。
大友家は豊臣家に従属し、秀吉は九州征伐に向けて動き出します。
秀吉は先発隊として、秀吉家臣最古参の仙石権兵衛秀久を総大将に
四国の雄、長宗我部元親、十河存保を大友家の本拠地である豊後(大分県)に送ります。
しかし、四国勢は地理的に近いというだけで、秀吉配下に組み込まれてから
日も浅く、最近まで争っていた為に指揮も低く団結力に乏しい状態でした。
豊臣軍援軍の知らせを聞いた島津軍は戸次川の後方に布陣。
迎撃体制を取ります。
功に焦った仙石権兵衛秀久は状況を打開すべく、先勝を挙げて士気を高めようと、
無謀にも冬季の戸次川を渡って攻撃する作戦を決行。
勢いに任せた突撃で仙石権兵衛秀久は島津軍の第一陣を退けます。
しかし、島津必殺の釣り野伏に誘われ、深入りした仙石隊は島津主力隊に包囲され壊滅。
仙石権兵衛秀久は見方を置き去りにして逃走してしまいます。
仙石権兵衛秀久が敗走し、寒い川を渡った影響で、四国勢も徐々に押し返さてしまいます。
勢いに乗る島津軍は、四国勢を包囲し殲滅。
十河存保も討死し、秀吉軍は敗走します。
敗走する四国の兵を逃がそうと長宗我部元親の嫡男で武勇に長けた長宗我部信親が
島津軍の前に立ち塞がりますが、多勢に無勢。
島津家の猛攻の前に長宗我部信親は討死してしまいます。
最愛の息子を失った長宗我部元親の悲しみは深く、
世継ぎ争いも始まってしまった長宗我部家は以降、没落の一途を辿っていきます。
そして、見方を見捨てて逃げた仙石権兵衛秀久は秀吉の怒りを買い、
領地没収の上、高野山に追放となりました。
そしていよいよ、秀吉は自ら軍を率いて九州に向かう決意をします。
天下人豊臣秀吉VS九州の覇者 島津家の戦いが今始まろうとしています。
ってな訳で続きは次回。
ごちそうさまでした
織田家を完全に掌握した秀吉。
家康も従え、残す敵対勢力は九州の島津家、東北の伊達家、関東の北条家となりました。
さて、その頃の九州地方。
今山の戦いで勝利した龍造寺家は、大友家を退け
肥前一国を掌握する大名家へ躍進。
詳しくはその7
そして耳川の戦いの戦いで大友家を退けた島津家が台頭。
詳しくはその6
九州は三つ巴の三国志時代に突入していました。
耳川の戦いで敗れた大友家は、勢力を衰退させてしまいます。
その隙に龍造寺家は勢力を拡大。
北九州の最大勢力は龍造寺家に取って代わられました。
しかし、調子にのった龍造寺隆信は龍造寺家の軍師鍋島直茂の忠告も聞かず、
酒池肉林で遊び呆け、自分に敵対する者は一族や兵士もろとも皆殺しにし、
反対意見を出す者を粛清し始めます。
これに反発し龍造寺家から離反したのが長崎の島原半島を拠点とする有馬家でした。
龍造寺隆信は有馬家離反の報を受け、自ら総大将を務め、島原半島に向けて
進軍を開始、その数3万。
有馬家はすぐさま迎撃体制を取りますが、兵力は少なくまともには戦えません。
そこで島津家に救援を要請。
しかし、島津家は大友家と対陣中であり、多くの兵を救援に向かわせる事が出来ません。
そこで島津家久を総大将とした3千の精鋭部隊を送ります。
島津家久は援軍が期待出来ない以上、籠城戦をしても勝ち目が無いと悟り、
有利な地形に誘い込み、龍造寺本隊を叩く作戦を練ります。
対して龍造寺軍は、島津の援軍が少ない事を知り一気に敵の城を攻略する作戦に出ます。
そして島津軍の先鋒と対峙、大軍を率いていた龍造寺軍はそのまま蹴散らし、
島津の先鋒隊は敗走してしまいます。
すかさず一斉攻撃を開始する龍造寺軍。
しかしこれは、敵をおびき寄せ包囲する島津家必殺の戦法 釣り野伏せでした。
龍造寺軍は、沖田畷(おきたなわて)という場所に誘い込まれてしまいます。
畷とは、田んぼのあぜ道の事で、狭く細い道です。
ここに潜んでいた島津家久の鉄砲隊が狭い道で伸びきった龍造寺軍に攻撃を開始。
龍造寺軍は移動の邪魔になる楯や竹束を捨て無防備の状態だった為に先鋒隊は壊滅。
しかも龍造寺軍は大部隊だった為に事情が分からない後続部隊に押され
撤退できずに前進して鉄砲の餌食になり、そのまま押し出してきた
後続部隊も同じ運命を辿ります。
ようやく前線の事情を悟った後続の一部が左右に迂回しようとしますが、
田んぼに足を取られて機動力を失い、たちまち島津軍の餌食となりました。
その頃、龍造寺家軍師、鍋島直茂は島津軍の新納忠元と山手で激突。
鍋島直茂の名采配で新納隊を押していましたが、この様な状況の為に、
逆に本隊の救援に向かえませんでした。
こうして龍造寺隆信も戦乱の中、ついに討ち取られてしまいます。
ちなみに合戦の中で、首を取られた大名は、今川義元と龍造寺隆信くらいだそうです(汗
龍造寺隆信討死の報を聞き、鍋島直茂は戦線より離脱。
しかし、この戦いで北九州最大の勢力だった龍造寺家は
主力武将の殆どが討死し衰退。
大友、龍造寺双方を倒した島津家は、九州統一に向けて動き出します。
そして、もはや自力では島津に対抗出来ない事を悟った大友宗麟は
中央を制し、天下人になろうとしている秀吉に救援を要請。
大友家は豊臣家に従属し、秀吉は九州征伐に向けて動き出します。
秀吉は先発隊として、秀吉家臣最古参の仙石権兵衛秀久を総大将に
四国の雄、長宗我部元親、十河存保を大友家の本拠地である豊後(大分県)に送ります。
しかし、四国勢は地理的に近いというだけで、秀吉配下に組み込まれてから
日も浅く、最近まで争っていた為に指揮も低く団結力に乏しい状態でした。
豊臣軍援軍の知らせを聞いた島津軍は戸次川の後方に布陣。
迎撃体制を取ります。
功に焦った仙石権兵衛秀久は状況を打開すべく、先勝を挙げて士気を高めようと、
無謀にも冬季の戸次川を渡って攻撃する作戦を決行。
勢いに任せた突撃で仙石権兵衛秀久は島津軍の第一陣を退けます。
しかし、島津必殺の釣り野伏に誘われ、深入りした仙石隊は島津主力隊に包囲され壊滅。
仙石権兵衛秀久は見方を置き去りにして逃走してしまいます。
仙石権兵衛秀久が敗走し、寒い川を渡った影響で、四国勢も徐々に押し返さてしまいます。
勢いに乗る島津軍は、四国勢を包囲し殲滅。
十河存保も討死し、秀吉軍は敗走します。
敗走する四国の兵を逃がそうと長宗我部元親の嫡男で武勇に長けた長宗我部信親が
島津軍の前に立ち塞がりますが、多勢に無勢。
島津家の猛攻の前に長宗我部信親は討死してしまいます。
最愛の息子を失った長宗我部元親の悲しみは深く、
世継ぎ争いも始まってしまった長宗我部家は以降、没落の一途を辿っていきます。
そして、見方を見捨てて逃げた仙石権兵衛秀久は秀吉の怒りを買い、
領地没収の上、高野山に追放となりました。
そしていよいよ、秀吉は自ら軍を率いて九州に向かう決意をします。
天下人豊臣秀吉VS九州の覇者 島津家の戦いが今始まろうとしています。
ってな訳で続きは次回。
ごちそうさまでした
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