信長の野望・創造 with パワーアップキット(PC)
「敵は本能寺にあり!」
秀吉の援軍として出陣した明智光秀は、突然全軍に発令。
軍勢を反転させ、京都に向かって進軍し始めます。
物音で目覚めた信長は、外が騒がしい事に気づきます。
小姓の森蘭丸に「何者の企てか」と聞きます。
森蘭丸「明智が手の者と、見受けられます」
外を確認する信長。
そこには桔梗紋の旗印が見えます。
そして信長は一言。
「是非に及ばず」
戦国の世を震撼させた本能寺の変です。
この後、弓を持って応戦する信長ですが、弓が折れてしまい、
薙刀に持ち替えて奮戦しますが、左肩に銃弾を受け、これ以上の応戦を断念。
森蘭丸に寺に火を放たせた後、部屋の奥で自刃したと言われています。
その頃、信長の嫡男 織田信忠も妙覚寺(京都のお寺)に宿泊していました。
本能寺を明智光秀が強襲した事を知ると救援に向かおうとしますが、
信長自害の知らせを聞き、二条御所に移動し光秀を迎え撃つ準備をします。
誠仁親王を脱出させ、僅かな兵と共に籠城。
しかし、相手は1万の軍勢。敵うべくもなく、信忠も自刃します。
徳川家康は、安土での接待を終え堺見物している最中でした。
兵を率いていなかった家康は窮地に陥りますが、お供の伊賀忍者 服部半蔵が
伊賀忍者・甲賀忍者に協力を要請。
伊賀・甲賀忍者に守られながら伊賀の山中を超え、伊勢湾から船に乗り
三河へ脱出する事に成功。
家康は伊賀越を果たします。
その頃、毛利と対陣中であった羽柴秀吉の元にも信長死すの報が入ります。
秀吉は本能寺の変の事は隠し、急いで毛利との和睦に望みます。
不信に思う毛利方でしたが、押されている現状、和睦を飲む以外にありません。
秀吉は毛利との和睦が成立すると、急いで姫路城に撤収。
その後本能寺の変を聞いた毛利方は、追撃を行おうとしますが、
時既に遅し、和睦が成立しており追撃は諦めざるを得ませんでした。
その頃、明智光秀は友人であり配下の細川藤孝に協力を要請します。
細川藤孝は、秀吉の援軍として光秀より一足先に高松城に向かっている最中でした。
しかし、本能寺の変の知らせを聞いた藤孝はすぐに帰還。
息子の忠興の妻で光秀の娘、ガラシャを幽閉すると、剃髪して幽斎と名乗り、
家督を息子の忠興に譲り隠居してしまいます。
毛利との和睦を成立させた秀吉は、誰よりも早く信長の仇討ちをするため、
姫路城から猛スピードで京に向けて進軍を開始。
秀吉は当時としてはあり得ない程の早さで進軍し、
備中から山城までを10日間で踏破します。
世に言う中国大返しです。
光秀は急遽戻ってきた秀吉を京都手前で迎え撃つべく大阪方面に進軍。
その途上、再三に渡って細川藤孝、筒井順慶に協力要請を送りますが2人は動きません。
秀吉は光秀を討つため京方面に進軍。
大阪や京都周辺の武将に協力を要請し、池田恒興などの武将と合流。
さらに信長の三男、織田信孝、丹羽長秀の四国方面軍と合流。
京都の西にある山崎にて激突します。
秀吉は山崎にある、頂上決戦を表す言葉「天王山」の語源ともなった天王山の山頂に陣を構えます。
秀吉軍2万に対し、光秀軍は1万5千。
まずは、 高山右近と中川清秀が先鋒を努め進軍
それに対し斎藤利三、溝尾茂朝隊が迎撃に入り開戦。
序盤は押されかけますが、側面より攻撃を開始した織田信孝、丹羽長秀隊の戦法、
気勢崩しにより徐々に押し返します。
そして、大きく迂回していた池田恒興隊が戦場に出現。
斎藤利三隊の後方より攻撃を開始し、利三隊以下3隊は壊滅。
光秀本陣前に布陣していた一色満信隊は、後詰として出現した堀秀政隊と、
黒田官兵衛、羽柴秀長隊により撃退。
残った光秀本隊に秀吉本隊が攻撃を開始。
福島正則の七本槍を発動
秀吉隊が総攻撃を開始します。
もう既に戦局は決して居ました。
光秀軍は総崩れとなり敗走。
秀吉の勝利となりました。
この戦いは後に山崎の戦い、或いは天王山の戦いとも呼ばれます。
敗走した光秀は再起を図り近江地方への脱出を試みます。
しかし、落ち武者狩りの竹槍に突かれ殺されてしまいます。
その後、安土を守っていた明智秀満は本拠の坂本城に戻り一族と共に自刃。
明智光秀一族は滅亡し、光秀の野望はここで終わります。
そして、三谷幸喜監督の作品として有名になった清州会議が
始まろうとしています(笑
ってな訳で続きは次回。
ごちそうさまでした
「敵は本能寺にあり!」
秀吉の援軍として出陣した明智光秀は、突然全軍に発令。
軍勢を反転させ、京都に向かって進軍し始めます。
物音で目覚めた信長は、外が騒がしい事に気づきます。
小姓の森蘭丸に「何者の企てか」と聞きます。
森蘭丸「明智が手の者と、見受けられます」
外を確認する信長。
そこには桔梗紋の旗印が見えます。
そして信長は一言。
「是非に及ばず」
戦国の世を震撼させた本能寺の変です。
この後、弓を持って応戦する信長ですが、弓が折れてしまい、
薙刀に持ち替えて奮戦しますが、左肩に銃弾を受け、これ以上の応戦を断念。
森蘭丸に寺に火を放たせた後、部屋の奥で自刃したと言われています。
その頃、信長の嫡男 織田信忠も妙覚寺(京都のお寺)に宿泊していました。
本能寺を明智光秀が強襲した事を知ると救援に向かおうとしますが、
信長自害の知らせを聞き、二条御所に移動し光秀を迎え撃つ準備をします。
誠仁親王を脱出させ、僅かな兵と共に籠城。
しかし、相手は1万の軍勢。敵うべくもなく、信忠も自刃します。
徳川家康は、安土での接待を終え堺見物している最中でした。
兵を率いていなかった家康は窮地に陥りますが、お供の伊賀忍者 服部半蔵が
伊賀忍者・甲賀忍者に協力を要請。
伊賀・甲賀忍者に守られながら伊賀の山中を超え、伊勢湾から船に乗り
三河へ脱出する事に成功。
家康は伊賀越を果たします。
その頃、毛利と対陣中であった羽柴秀吉の元にも信長死すの報が入ります。
秀吉は本能寺の変の事は隠し、急いで毛利との和睦に望みます。
不信に思う毛利方でしたが、押されている現状、和睦を飲む以外にありません。
秀吉は毛利との和睦が成立すると、急いで姫路城に撤収。
その後本能寺の変を聞いた毛利方は、追撃を行おうとしますが、
時既に遅し、和睦が成立しており追撃は諦めざるを得ませんでした。
その頃、明智光秀は友人であり配下の細川藤孝に協力を要請します。
細川藤孝は、秀吉の援軍として光秀より一足先に高松城に向かっている最中でした。
しかし、本能寺の変の知らせを聞いた藤孝はすぐに帰還。
息子の忠興の妻で光秀の娘、ガラシャを幽閉すると、剃髪して幽斎と名乗り、
家督を息子の忠興に譲り隠居してしまいます。
毛利との和睦を成立させた秀吉は、誰よりも早く信長の仇討ちをするため、
姫路城から猛スピードで京に向けて進軍を開始。
秀吉は当時としてはあり得ない程の早さで進軍し、
備中から山城までを10日間で踏破します。
世に言う中国大返しです。
光秀は急遽戻ってきた秀吉を京都手前で迎え撃つべく大阪方面に進軍。
その途上、再三に渡って細川藤孝、筒井順慶に協力要請を送りますが2人は動きません。
秀吉は光秀を討つため京方面に進軍。
大阪や京都周辺の武将に協力を要請し、池田恒興などの武将と合流。
さらに信長の三男、織田信孝、丹羽長秀の四国方面軍と合流。
京都の西にある山崎にて激突します。
秀吉は山崎にある、頂上決戦を表す言葉「天王山」の語源ともなった天王山の山頂に陣を構えます。
秀吉軍2万に対し、光秀軍は1万5千。
まずは、 高山右近と中川清秀が先鋒を努め進軍
それに対し斎藤利三、溝尾茂朝隊が迎撃に入り開戦。
序盤は押されかけますが、側面より攻撃を開始した織田信孝、丹羽長秀隊の戦法、
気勢崩しにより徐々に押し返します。
そして、大きく迂回していた池田恒興隊が戦場に出現。
斎藤利三隊の後方より攻撃を開始し、利三隊以下3隊は壊滅。
光秀本陣前に布陣していた一色満信隊は、後詰として出現した堀秀政隊と、
黒田官兵衛、羽柴秀長隊により撃退。
残った光秀本隊に秀吉本隊が攻撃を開始。
福島正則の七本槍を発動
秀吉隊が総攻撃を開始します。
もう既に戦局は決して居ました。
光秀軍は総崩れとなり敗走。
秀吉の勝利となりました。
この戦いは後に山崎の戦い、或いは天王山の戦いとも呼ばれます。
敗走した光秀は再起を図り近江地方への脱出を試みます。
しかし、落ち武者狩りの竹槍に突かれ殺されてしまいます。
その後、安土を守っていた明智秀満は本拠の坂本城に戻り一族と共に自刃。
明智光秀一族は滅亡し、光秀の野望はここで終わります。
そして、三谷幸喜監督の作品として有名になった清州会議が
始まろうとしています(笑
ってな訳で続きは次回。
ごちそうさまでした
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