信長の野望・創造 with パワーアップキット(PC)

新シナリオで再開した前回。
軍団なんかも設定し直します。

まずは、北陸方面軍として柴田勝家。
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関東方面軍、滝川一益。
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中国方面軍、羽柴秀吉。
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近畿方面軍、明智光秀。
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遊撃軍(中国、四国補佐)、池田恒興。
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といった感じに配置。

軍団配置も完了し、いよいよ武田家に進軍します。
まずは、武田信玄の五男で仁科家を継いだ仁科盛信が守る高遠城を攻略。
織田信忠・滝川一益率いる大軍に包囲され、盛信は奮闘した後自刃しました。
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織田・徳川連合は武田の要所を次々と陥落させていきます。
追い詰められた武田勝頼は、最期の望みとして信玄以来の譜代・小山田信茂を頼りますが
裏切られてしまいます。
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進路をふさがれ、後方からは滝川一益の追手に追われ、逃げ場が無いことを悟った勝頼一行は、
武田氏ゆかりの地である天目山にて自害。
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450年の歴史を誇る名門・甲斐武田氏は滅亡するのでした。
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信長は、武田家を滅ぼした功を労うために、家康を安土城に招待します。
二人は、天下取りの算段を日が暮れるまで語り合いました。
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しかし、接待役だった明智光秀は、何やら胸に秘める思いが有ったようです。
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それから数日後。
明智光秀は京都の愛宕山で連歌会を開催します。
連歌会とは、何人かで集まって俳句を読み合うというもので、
この時の連歌会を愛宕百韻といいます。

愛宕百韻の主催者である光秀は、一番最初に詠む句
発句にて、「時は今 雨が下しる 五月哉」と詠みます。
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明智家は土岐氏の支流氏族で、本家は土岐氏になります。
「時」とは「土岐」すなわち土岐家出身の光秀を指し、
「雨が下しる」は「天が下しる」天下に命を下す、天下に号令するという事の暗喩でした。
つまりこの句は、明智光秀が謀反の決意を詠んだ句だったのです。

その頃、秀吉は毛利の備中高松城を攻略中でした。

三木城攻略の際に、竹中半兵衛が進言し実行した兵糧攻め
三木の干殺し。
それと、鳥取城攻略の際に三木城攻略の際のノウハウを活かした
鳥取城渇え殺し。
これ以降、秀吉は城攻め時には兵糧攻めを多様する様になり、得意戦術となります。

そして、備中高松城。
備中高松城は当時数少なかった低湿地を利用した沼城で、
城へ至る道は1つしかなく、大軍勢は機能しない強固な城でした。

力攻めでは無理と判断した秀吉は、周囲の小城を次々と攻め落とし大軍で城を包囲。
得意の兵糧攻めを行いますが、毛利輝元率いる援軍が接近しつつあったので、
信長に援軍を送るよう使者を出します。
しかし、信長からは明智光秀の軍を送ると返事は得たものの、一日も早く落城させよとの
厳しい命令が下されます。
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そこで秀吉の軍師、黒田官兵衛が取った奇策は、
城の周りに堤防を築き、川を引き入れ、水没させるという物でした。
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4キロにも及ぶ堤防を、農民達も動員し僅か12日で完成させます。
折しも梅雨の時期にあたって降り続いた雨によって川が増水し巨大な湖が出現。
備中高松城は湖に浮かぶ孤島と化してしまいます。
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水没した備中高松城は補給も絶たれ、後は落城を待つのみに追い込まれてしまいます。
これを見た毛利家は高松城城主、清水宗治に秀吉への降伏を命じますが、宗治はこれを拒否。
自らの命と引き換えに城兵を助け、高松城を秀吉に明け渡す事で合意します。
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清水宗治は小船で秀吉陣地まで赴くと、舞を踊った後、自害しました。
見事な宗治の切腹に秀吉は感服し、これ以降、武士の一般的な切腹の作法として確立される事になります。
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そして、この少し前の事。
信長の命を受けた明智光秀は、毛利と交戦中の秀吉の援軍として出陣。
しかし、秀吉の援軍として進軍していた明智光秀は、突然「敵は本能寺にあり」と号令。
軍勢を反転させ、京都に向かって進軍し始めるのでした。
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ってな感じです。
家康接待の際に、接待役だった光秀を、料理の魚が腐っていたので解任し、
そのまま秀吉の援軍として送ったという話が定説になっていますが、
近年では、後に天下人になった秀吉が光秀を悪者にするために
でっち上げたのではないかとも言われています。
創造では、こちらの説をとっているみたいですね。

愛宕百韻の発句に関して、私は別の解釈を持っているんですが、
創造は、定説になぞった形になっています。
まぁ この辺の真実は闇の中って感じですかね(笑

ってな訳で続きは次回。

ごちそうさまでした

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