先週末は忙しくてゲームをしている時間が取れなかった為、
昨日はブログ更新はお休みしました。
昨日は少しだけプレイ出来ましたので続きです。
信長の野望・創造 with パワーアップキット(PC)
東側の脅威として君臨していた上杉謙信が病死し、
憂いもなくなりましたので、中国地方への攻撃を強化していきます。
さてさて、この頃ある事件が起こるんですが、信長の野望・創造では
省略されている様ですので、簡単に説明しておきます。
信長が京都方面に進出した際に、荒木村重という人を家臣にしています。
荒木村重は摂津(現在の大阪周辺)を信長より与えられる程の人物で、
茶人としても有名な人でした。
しかし、荒木村重が突然、謀反を起こします。
正確な理由は現在でも不明です。
信長は講和の使者を送りますが、荒木村重は無視し続けます。
そこで旧知の間であった、羽柴秀吉の軍師、黒田官兵衛を説得に送りますが、
荒木村重は黒田官兵衛を土牢に監禁。
有岡城に篭城し、織田軍に対して徹底抗戦の構えを見せます。
しかし、期待していた毛利の援軍は現れず窮地に陥った荒木村重は、
単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城へ移動。
尼崎に来ていた毛利軍の将・桂元将へ援軍の要請に向かいます。
信長は、有岡城を包囲し落城させると、尼崎城と花隈城を明け渡せば、
おのおのの妻子を助ける と講和の条件を出しますが荒木村重は受け入れず、
有岡城の女房衆122人が処刑されました。
その光景は、凄惨だったと伝えられています。
その後、信長は避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、
徹底的に村重を追及していきますが、肝心の村重本人は息子・村次とともに
荒木元清のいる花隈城に移り、最後は毛利家に亡命し、余生を過ごしています。
この騒動で荒木村重に捕らえられた黒田官兵衛は1年近くも投獄されたままに
なってしまいます。
信長は、黒田官兵衛は荒木村重に寝返ったと思い込み、人質となっていた
彼の息子を処刑するように命令します。
その役目を竹中半兵衛が引き受けると信長にニセの首を渡し、官兵衛の息子を匿います。
そして他の秀吉の家臣達は官兵衛救出作戦を練り、この戦乱を利用して官兵衛を土牢から救出。
秀吉は官兵衛の変わり様に驚き「すまぬ」と号泣したと言われ、
後に真相を知った信長も彼の息子を処刑したことを大変悔やみ、
竹中半兵衛の気転によって生きていることが解ると大いに喜んだと言われています。
黒田官兵衛が投獄されていた土牢は劣悪な環境で、左脚に障害が残り、歩行や騎行が
やや不自由になってしまったそうです。
さてさて、中国地方攻略を命じていた秀吉が、三木城を攻略し始めた頃、
竹中半兵衛が病で倒れます。
京で静養する事をすすめる秀吉ですが、半兵衛は自らの死期を悟り戦場で死ぬ事を嘆願。
陣中にて死去しました。享年36歳。
続いても事件。
徳川家康の嫡男、徳川信康の正室で信長の娘 徳姫から信長に宛てた手紙を、
徳川四天王の一人、酒井忠次が持ってきます。
築山殿と信康の罪状を訴える十二ヶ条の訴状でした。
築山殿は、徳川家康の正室で今川義元の妹の娘、つまり義元の姪にあたります。
手紙には信康と不仲であること築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていました。
しかし、信長は女子供の戯言と一蹴。
それより、こんな物を徳川四天王である酒井忠次が持ってきた事に裏があると見抜きます。
信康の正室は信長の娘ですので、信長のごきげんを伺いに来たという事の様です。
それに対し、信長は意に介しません。
どうやら、信康の近辺で謀反の疑いがあると家康は睨んでいる様です。
信康の母は今川の血を引いているが故に、今川家復権を目論む者達が
信康を祭り上げ家康に反旗を翻えそうと目論んでいる様です。
ってな訳で、築山殿は打首、信康は切腹。
徳姫は織田家に戻され、徳川との同盟は婚姻から無期限同盟になりました。
秀吉を長浜城から移動させて、姫路城を本拠とした羽柴秀吉軍を設立。
中国地方への攻撃を強化していきます。
織田信忠に嫡男、秀信が誕生。
幼名を三法師といい、清州会議で秀吉が持ち上げるんですが、
この話はそのうちに(笑
そして、森蘭丸が元服。
本願寺の本拠地、石山御坊を攻略し本願寺家は滅亡。
本願寺家の詳しい話は、以前に書いてますので省略。
ってな感じですかね。
信康切腹事件は、通説とは違う近年有力視されてる父子不仲説になってます。
天道の時も、上杉謙信女性説とか有ったりして面白かったですが、
ちゃんと、こういう部分も手が入っていて面白いですよね。
そんな訳で続きは次回。
ごちそうさまでした
昨日はブログ更新はお休みしました。
昨日は少しだけプレイ出来ましたので続きです。
信長の野望・創造 with パワーアップキット(PC)
東側の脅威として君臨していた上杉謙信が病死し、
憂いもなくなりましたので、中国地方への攻撃を強化していきます。
さてさて、この頃ある事件が起こるんですが、信長の野望・創造では
省略されている様ですので、簡単に説明しておきます。
信長が京都方面に進出した際に、荒木村重という人を家臣にしています。
荒木村重は摂津(現在の大阪周辺)を信長より与えられる程の人物で、
茶人としても有名な人でした。
しかし、荒木村重が突然、謀反を起こします。
正確な理由は現在でも不明です。
信長は講和の使者を送りますが、荒木村重は無視し続けます。
そこで旧知の間であった、羽柴秀吉の軍師、黒田官兵衛を説得に送りますが、
荒木村重は黒田官兵衛を土牢に監禁。
有岡城に篭城し、織田軍に対して徹底抗戦の構えを見せます。
しかし、期待していた毛利の援軍は現れず窮地に陥った荒木村重は、
単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城へ移動。
尼崎に来ていた毛利軍の将・桂元将へ援軍の要請に向かいます。
信長は、有岡城を包囲し落城させると、尼崎城と花隈城を明け渡せば、
おのおのの妻子を助ける と講和の条件を出しますが荒木村重は受け入れず、
有岡城の女房衆122人が処刑されました。
その光景は、凄惨だったと伝えられています。
その後、信長は避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、
徹底的に村重を追及していきますが、肝心の村重本人は息子・村次とともに
荒木元清のいる花隈城に移り、最後は毛利家に亡命し、余生を過ごしています。
この騒動で荒木村重に捕らえられた黒田官兵衛は1年近くも投獄されたままに
なってしまいます。
信長は、黒田官兵衛は荒木村重に寝返ったと思い込み、人質となっていた
彼の息子を処刑するように命令します。
その役目を竹中半兵衛が引き受けると信長にニセの首を渡し、官兵衛の息子を匿います。
そして他の秀吉の家臣達は官兵衛救出作戦を練り、この戦乱を利用して官兵衛を土牢から救出。
秀吉は官兵衛の変わり様に驚き「すまぬ」と号泣したと言われ、
後に真相を知った信長も彼の息子を処刑したことを大変悔やみ、
竹中半兵衛の気転によって生きていることが解ると大いに喜んだと言われています。
黒田官兵衛が投獄されていた土牢は劣悪な環境で、左脚に障害が残り、歩行や騎行が
やや不自由になってしまったそうです。
さてさて、中国地方攻略を命じていた秀吉が、三木城を攻略し始めた頃、
竹中半兵衛が病で倒れます。
京で静養する事をすすめる秀吉ですが、半兵衛は自らの死期を悟り戦場で死ぬ事を嘆願。
陣中にて死去しました。享年36歳。
続いても事件。
徳川家康の嫡男、徳川信康の正室で信長の娘 徳姫から信長に宛てた手紙を、
徳川四天王の一人、酒井忠次が持ってきます。
築山殿と信康の罪状を訴える十二ヶ条の訴状でした。
築山殿は、徳川家康の正室で今川義元の妹の娘、つまり義元の姪にあたります。
手紙には信康と不仲であること築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていました。
しかし、信長は女子供の戯言と一蹴。
それより、こんな物を徳川四天王である酒井忠次が持ってきた事に裏があると見抜きます。
信康の正室は信長の娘ですので、信長のごきげんを伺いに来たという事の様です。
それに対し、信長は意に介しません。
どうやら、信康の近辺で謀反の疑いがあると家康は睨んでいる様です。
信康の母は今川の血を引いているが故に、今川家復権を目論む者達が
信康を祭り上げ家康に反旗を翻えそうと目論んでいる様です。
ってな訳で、築山殿は打首、信康は切腹。
徳姫は織田家に戻され、徳川との同盟は婚姻から無期限同盟になりました。
秀吉を長浜城から移動させて、姫路城を本拠とした羽柴秀吉軍を設立。
中国地方への攻撃を強化していきます。
織田信忠に嫡男、秀信が誕生。
幼名を三法師といい、清州会議で秀吉が持ち上げるんですが、
この話はそのうちに(笑
そして、森蘭丸が元服。
本願寺の本拠地、石山御坊を攻略し本願寺家は滅亡。
本願寺家の詳しい話は、以前に書いてますので省略。
ってな感じですかね。
信康切腹事件は、通説とは違う近年有力視されてる父子不仲説になってます。
天道の時も、上杉謙信女性説とか有ったりして面白かったですが、
ちゃんと、こういう部分も手が入っていて面白いですよね。
そんな訳で続きは次回。
ごちそうさまでした
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