信長の野望・創造 with パワーアップキット(PC)
小谷城を包囲した我が織田軍。
ここに来て、かなり順番が変わってしまったので、史実の流れについて
解説しようと思います。
織田、徳川連合VS浅井、朝倉連合がぶつかった姉川の合戦は、
浅井・朝倉連合軍 の敗退で幕を閉じました。
その後、浅井軍は難攻不落と言われた小谷城に撤退し籠城。
しかし、信長は無理に攻めずに帰還してしまいます。
それを受けて浅井軍は起死回生を図り、京都にある比叡山・延暦寺に
援助を求め比叡山に布陣します。
しかし、足利義昭からの停戦命令により、浅井、織田の戦いは
一時停戦となりお互いに兵を引きます。
翌年、信長は比叡山・延暦寺を焼き討ち。
比叡山にあった神社仏閣を全て焼き払い、そこにいた僧侶三千人を皆殺しにします。
こうして、決定的に不仲となった足利義昭の呼びかけにより、
浅井・朝倉・本願寺・武田・上杉などの大名家による信長包囲網が完成。
武田信玄が上洛を開始し、その途中で織田家の同盟国であった徳川家を一蹴。
さらに本願寺家が各地で一向一揆をお越し織田家は窮地に陥ります。
しかし、上洛途中で武田信玄が病死。
さらに上杉謙信も病死してしまいます。
こうして信長包囲網はほぼ瓦解。
織田家は、浅井家に対し再侵攻を開始します。
浅井家は難攻不落と言われた小谷城に籠城しますが、
姉川合戦での傷が癒えておらず、さらに朝倉家は頼りになりません。
多勢に無勢の中、織田家の猛攻により小谷城は落城。
浅井長政は最期まで付き添っていたお市の方を3人の娘と共に脱出させ、
最期の籠城戦の末に自刃。享年29歳でした。
ちなみに、脱出した3人の娘ですが、
長女 茶々は豊臣秀吉の側室となって豊臣家の跡継ぎ豊臣秀頼を生み、
淀君として豊臣時代に多大な権力を持ちます。
次女の初は京極家を復興させた京極高次に嫁ぎます。
三女の江は徳川幕府二代将軍 徳川秀忠の妻となり、
三代将軍、徳川家光を産みます。
とまぁ こうなる予定だった訳ですが、
信玄が上洛を開始する前に、浅井家が滅亡(汗
浅井家の家臣を取り込みます。
秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いで活躍した、
鬼玄蕃こと、佐久間盛政が元服。
秀吉が、木下から羽柴姓に変更。
さらに、小谷城を改修する際に、小谷城がある今浜と信長を合わせて
長浜城と改名し、秀吉の居城としました。
秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもあります。
さて、浅井は倒しましたが、まだ朝倉が残っています。
と、いう訳で北進します。
明智光秀軍を新設し、近畿の守りを任せます。
式部大輔を叙任。
明智軍が、残党の六角家を撃破しました。
こうして、六角家は滅亡。
六角家の家臣を取り込みます。
この調子で、滝川一益軍は、家康と組んで武田討伐へ。
明智光秀軍は、筒井家の攻略をさせます。
一乗谷を落とし、勢いに乗る我が織田軍。
そんな感じで近畿、北陸方面を攻撃していると、突然、武田軍が大軍を率いて上洛を開始。
浜松城を素通りして三方ヶ原を通過しようとする武田軍ですが、
背後を突くように浜松城から打って出た徳川軍が三方ヶ原に到着。
ここで織田、徳川連合VS武田軍の大開戦が勃発。
背後を突いたと思われた徳川軍ですが、それは信玄の策略でした。
すでに三方原に布陣していた武田軍は魚鱗の陣を布いて待ち構えいました。
これに対し鶴翼の陣で対抗する徳川軍ですが、兵力・戦術面ともに劣り、勝ち目はありません。
わずか2時間の戦闘で甚大な被害を受けて家康軍は敗走してしまいう
はずなんですが……(笑
織田、徳川連合軍2万に対し、武田軍1万。
数に勝る我が軍は、武田軍を壊滅。
え~と…… 三方ヶ原の戦い?ナニソレ美味しいの?
・・・・・・
勝っちゃダメだろ……。
でも、戦いが始まったら、やっぱり負けたくないんだよねぇ(汗
まぁ…… どうせ、信玄は上洛出来ないんだし、良いよね(笑
河尻秀隆の子、河尻秀長が元服。
赤松家を従属。
信長の野望オンラインで織田家でプレイしてた人には、良く落ちる陣でお馴染みの
可児才蔵を登用。
明智光秀は軍団としての指揮を任せているので、
朝廷との交渉役を前田玄以に変更。
別所家を従属。
佐久間勝政が元服。
ここで、北陸方面攻略に柴田勝家軍を設立。
朝倉の本拠、朝倉山城攻略を任せます。
そしてついに、朝倉山城を包囲する織田軍。
朝倉家打倒まで、あと少しです。
ってな訳で続きは次回。
ごちそうさまでした
小谷城を包囲した我が織田軍。
ここに来て、かなり順番が変わってしまったので、史実の流れについて
解説しようと思います。
織田、徳川連合VS浅井、朝倉連合がぶつかった姉川の合戦は、
浅井・朝倉連合軍 の敗退で幕を閉じました。
その後、浅井軍は難攻不落と言われた小谷城に撤退し籠城。
しかし、信長は無理に攻めずに帰還してしまいます。
それを受けて浅井軍は起死回生を図り、京都にある比叡山・延暦寺に
援助を求め比叡山に布陣します。
しかし、足利義昭からの停戦命令により、浅井、織田の戦いは
一時停戦となりお互いに兵を引きます。
翌年、信長は比叡山・延暦寺を焼き討ち。
比叡山にあった神社仏閣を全て焼き払い、そこにいた僧侶三千人を皆殺しにします。
こうして、決定的に不仲となった足利義昭の呼びかけにより、
浅井・朝倉・本願寺・武田・上杉などの大名家による信長包囲網が完成。
武田信玄が上洛を開始し、その途中で織田家の同盟国であった徳川家を一蹴。
さらに本願寺家が各地で一向一揆をお越し織田家は窮地に陥ります。
しかし、上洛途中で武田信玄が病死。
さらに上杉謙信も病死してしまいます。
こうして信長包囲網はほぼ瓦解。
織田家は、浅井家に対し再侵攻を開始します。
浅井家は難攻不落と言われた小谷城に籠城しますが、
姉川合戦での傷が癒えておらず、さらに朝倉家は頼りになりません。
多勢に無勢の中、織田家の猛攻により小谷城は落城。
浅井長政は最期まで付き添っていたお市の方を3人の娘と共に脱出させ、
最期の籠城戦の末に自刃。享年29歳でした。
ちなみに、脱出した3人の娘ですが、
長女 茶々は豊臣秀吉の側室となって豊臣家の跡継ぎ豊臣秀頼を生み、
淀君として豊臣時代に多大な権力を持ちます。
次女の初は京極家を復興させた京極高次に嫁ぎます。
三女の江は徳川幕府二代将軍 徳川秀忠の妻となり、
三代将軍、徳川家光を産みます。
とまぁ こうなる予定だった訳ですが、
信玄が上洛を開始する前に、浅井家が滅亡(汗
浅井家の家臣を取り込みます。
秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いで活躍した、
鬼玄蕃こと、佐久間盛政が元服。
秀吉が、木下から羽柴姓に変更。
さらに、小谷城を改修する際に、小谷城がある今浜と信長を合わせて
長浜城と改名し、秀吉の居城としました。
秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもあります。
さて、浅井は倒しましたが、まだ朝倉が残っています。
と、いう訳で北進します。
明智光秀軍を新設し、近畿の守りを任せます。
式部大輔を叙任。
明智軍が、残党の六角家を撃破しました。
こうして、六角家は滅亡。
六角家の家臣を取り込みます。
この調子で、滝川一益軍は、家康と組んで武田討伐へ。
明智光秀軍は、筒井家の攻略をさせます。
一乗谷を落とし、勢いに乗る我が織田軍。
そんな感じで近畿、北陸方面を攻撃していると、突然、武田軍が大軍を率いて上洛を開始。
浜松城を素通りして三方ヶ原を通過しようとする武田軍ですが、
背後を突くように浜松城から打って出た徳川軍が三方ヶ原に到着。
ここで織田、徳川連合VS武田軍の大開戦が勃発。
背後を突いたと思われた徳川軍ですが、それは信玄の策略でした。
すでに三方原に布陣していた武田軍は魚鱗の陣を布いて待ち構えいました。
これに対し鶴翼の陣で対抗する徳川軍ですが、兵力・戦術面ともに劣り、勝ち目はありません。
わずか2時間の戦闘で甚大な被害を受けて家康軍は敗走してしまいう
はずなんですが……(笑
織田、徳川連合軍2万に対し、武田軍1万。
数に勝る我が軍は、武田軍を壊滅。
え~と…… 三方ヶ原の戦い?ナニソレ美味しいの?
・・・・・・
勝っちゃダメだろ……。
でも、戦いが始まったら、やっぱり負けたくないんだよねぇ(汗
まぁ…… どうせ、信玄は上洛出来ないんだし、良いよね(笑
河尻秀隆の子、河尻秀長が元服。
赤松家を従属。
信長の野望オンラインで織田家でプレイしてた人には、良く落ちる陣でお馴染みの
可児才蔵を登用。
明智光秀は軍団としての指揮を任せているので、
朝廷との交渉役を前田玄以に変更。
別所家を従属。
佐久間勝政が元服。
ここで、北陸方面攻略に柴田勝家軍を設立。
朝倉の本拠、朝倉山城攻略を任せます。
そしてついに、朝倉山城を包囲する織田軍。
朝倉家打倒まで、あと少しです。
ってな訳で続きは次回。
ごちそうさまでした
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